体験談
·
26日 8月 2021
東京に出てきたのに

東京に出てきたのに
「人の子は失われた人を探して救うために来たのです。」
ルカの福音書19章10節のんびりした人達が住む宮崎は日向灘に面していて、温暖な気候で住みやすいところです。そこで、私は1953年2月に生まれました。 小さな村の貧しい農家には6人の子供がいるのに、また一人生まれた男子が私でした。家には一つの不文律があり、長男以外はこの家に住むことが許されないのです。 中学生になった時には、あと3年で家を出てゆく決意は固めていました。そのため、大工の道に進もうと思いました。 宮崎を出て東京に住みたかったのです。実は、3番目の兄がすでに東京で大工をしていたので、そこを頼れば、母も安心するし、この田舎を出て広い世界へ飛び出す方法として最も好都合だったからです。兄もそのことを受け入れてくれたので、私は東京行きを待ち遠しく思いました。
大工の道は厳しく10年は辛抱しないと1人前にはなれないと言われていました。 それでも、隣近所のうわさ話やどうでもいいような情報の飛び交う小さな村のわずらわしさから抜け出したい思いもあって10年位は何とかなるだろうと思って、決めました。
1963年4月、隣町にある県立職業訓練校の建築大工科に入学。職業訓練期間は1年で半年の学科と半年の実習。 実習は、一般の方から建築の受注をして、実務経験のある指導教官と訓練生とで家を建てるプログラムです。実習期間中に2軒の家を建てました。卒業試験は、国家検定の課題作品を一人でつくり上げて合格すれば訓練終了というものです。そして、待望の東京へ出発する日を迎えるのです。
1964年4月1日、東京へ出発。そして、本当に、1人前の大工になるための日々が始まりました。仕事は覚えることばかりで、大工見習は忙しいのです。 兄の道具を出して、自分の道具を出して、10時にはお茶を準備しに走り、昼食を準備して、昼休みには刃物を研いで、そのうち1時になって仕事を始めて、3時のお茶を用意して、夕方は兄の道具を片付け、自分の道具を片付け、現場を片付けて帰るのですが、帰り道はいつも眠くて困りました。あまり眠っていると、短気な兄によく怒られました。 車を運転しながら兄は、私に仕事についてもいろいろ意見するのですが、言われている内容をイメージできないジレンマは毎日でした。教えられたことが仕事に反映できずに失敗することもたびたびでした。 「向いていないからやめろ!」と何度言われたことか。言われるまでもなく「自分は、大工には向いていないのではないか?」と思いつつ、その時は耐えるのみでした。 兄の容赦ない厳しい指導に、恨んではいけないと思いつつもう限界だと思う時も何度かありました。しかし、「こんな事に耐えられなくてどうする!1人前になるまではガマンしかない!」と自分に言い聞かせました。 結局、大工の修業は自分との戦いでした。それでも、そうこうしているうちに何とか5年目を迎える頃には1人で現場を任せてもらえるようになれました。仕事の速さはまだまだでしたが、仕事のノウハウは少しずつ身についてきたということで兄が認めてくれたのです。21才でした。
大工として、大きな山を越えた21才の秋、仕事から帰る途中で人身交通事故を起こしてしまったのです。アッと思った時には、目の前にいたその人は道路に倒れていました。 頭部を強打し、脳挫傷で意識不明となり、事故から3日目に亡くなられたのです。被害者の方にお詫びを言っても意識はないので何も言えず、詫びて済む事でもありません。 人が人の命を奪う事以上に罪深い事があるでしょうか。九州を出たのは何だったのか。なぜ私なのか。どうしてこんなことが起こるのか。何のために私は存在しているのか?そんな自問自答の日々でありながらも仕事はしなければなりませんでした。 事故を起こしたその車でまた現場へと通いました。事故処理も進み、刑事・民事の事も決まりがついたのは、翌年8月になっていました。
1965年8月の初め、アパートの郵便受けに「特別伝道会」のチラシが入っていました。なぜか、その教会に行ってみようと思ったのです。8月の末、土曜日の夜のプログラムでした。アパートから歩いて5~6分の所に教会はありましたが、30分程遅れて行きました。 その集会で語られた話はそれほど心動かされるものではありませんでした。私のこの悩みに解決はないのだと、やはり諦めざるを得ませんでした。 さっさと帰ろうと集会がおわるのを待っていました。ところが、会が終わると茶菓が出され、勧められるまま飲んでいるうちに、若い牧師さんやってきて横に座られて帰りにくくなってしまったのです。 身の上話を少々すると、牧師さんは小冊子を取り出して言われるままに一緒に読みました。「四つの法則」という小冊子でした。 なるほどそうなのかと納得する箇所もありました。イエス・キリストが十字架で死んだこと、そして三日後に復活したこと、すべての人が罪の赦しを必要としている、と書いてありました。すると、今夜、あなたはこれを信じませんか?と言うのです。 私の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架で死んでくださった話す牧師さんが、あなたは自分が罪人だと思うかと質問してきたので、はい、そう思うと答えると、それならキリストを信じる決心をしたらどうかと勧めるので、そうですねえ、と言って黙ってしまいました。 いきなり今ここで?!一瞬、いろいろな考えが頭の中をめぐりました。人の命を奪った私の罪を人は誰も赦すことはできない。そう言えるのはその人だけです。しかし、その人は亡くなった。 私が死んでもなおその罪は残るものだと思う。それを神の子イエス・キリストの死によって赦されるのだという。聖書にそう書いてあるからだという。 それは、暗き穴に落ち込んだ者に差し出された救いの手なのだ、本当かどうかわからないから今はやめるか、だが、しかし……心は揺れていて「根性なし、何を恐れているのか。今、どん底にいるのを知っているなら伸ばされた手をしっかりつかみ、ただすがれ!」という思いがわき上がってきたのです。 この聖書の神様にすがるんだという内なる声に従うことにしました。聖書の神様は本物だという直感もあって、ここに来なさいと私を呼び求めて下さる神様を信じた夜でした。信じます、と言った時に重苦しい思いから解放され、なぜか一つの区切りがついた気分となり、気持ちが軽くなりました。
しかし、それから、教会に行く気は全くないまま、仕事に励んで過ごしていました。数か月後のある夜、来客がありました。 誰だろう?開けると、初めは誰だかわからなかったのですが、相模原教会の牧師さんでした。用件を尋ねると、日曜日に礼拝に来ませんか、ということでした。しかも毎週。 そうですか、でも毎週は行かれません。「では、来れそうな時には来てください。待っていますからね。」牧師さんが帰った後、教会は毎週なのか、面倒だなと思いました。私は信じると決心したあの夜で一件落着だと思い込んでいたのです。それなりに気持ちは晴れて、息苦しさからは解放されていましたので。
翌年、1976年1月31日の夜のことでした。タバコを切らしてしまい、買いに行くにも冷たい雨が降りしきる中を行かなくても、と灰皿のシケモクを拾い出して吸っているうちにそんな自分がみじめに思えてきたのです。 これはもうニコチン依存症だな。と思うと、自分が哀れに思えてきて自分がイヤになってきました。 こんな事をしていてはダメだ。もうタバコはやめる、酒もやめる、ついでに夜遊びもやめた!聖書の神様を信じると決心したあの夜以来、今の私の生き方は何一つ変わっていないではないか!今まで持ったことのない確かな生き方を求めていた私、その心の叫びが全身にあふれ出してきてもう止められなくなってしまいました。 まさにあの夜の決心が動き始めた気がしました。「よーし、今夜を限りにこれまでと違う道を行こう。その道は聖書だ!奇しくも明日は私の誕生日、しかも、日曜日」新しい道を踏み出すには最良のタイミングでした。これは神様の用意された時だったのでしょうか。
当時、土曜の夜によく飲み歩いていた友人がいたのですが、すぐに電話して、これまでの経緯を話し、明日の日曜日からは毎週教会に行くことにしたから、今までのようにつきあえない事を伝えて、わかってもらいました。 2月1日の朝は良い天気で、礼拝に出席し、「私は、キリストと共に生きる道を行くことを願って、毎週参りますのでよろしくお願いします。」とあいさつをすると教会のみなさまが全員喜んで迎えて下さいました。そして、礼拝出席を重ね、この年1976年6月6日に洗礼を受けるに至りました。23才でした。
現在、私は68才。あの時以来、酒・タバコ・夜遊びとは無縁です。人生の岐路や、人間関係の悩み事などにおいて、その都度、聖書のみことばに励まされつつ歩んでいます。
私が信じると決心して、すがりついた聖書の神様はいつも真実です。自分を信じ、神様無しで生きる道もありますが、なぜ、自分は存在しているのかと追求しているのが、人、なのはないでしょうか。 どう始まって、どう生きて、どう終わるのか。その答えは聖書に有ります。命をかけて人を愛された神様の真実の愛が、疲れて渇いた人を探しておられるのです、その呼びかける声が耳を澄ませば聴こえるのです。
神様の愛とはイエス・キリストなのだと私は思います。
このページの公開日・更新日
公開日 2021年8月26日
tagPlaceholderカテゴリ: